2024.04.25 保護者向けコラム 菅公学生服 創業170周年 記念企画 「制服の思い出エピソードコンテスト」 ~応募総数1,168件~

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菅公学生服は創業170周年を記念し、「制服の思い出エピソードコンテスト」を開催いたしました。
長い月日を日本中の子どもたちとともに一緒に歩んできた証が、全国から寄せられた1,168件のエピソードです。
学生時代の思い出、親子の思い出、友人との思い出、人生の節目での思い出…
ひとつとして同じエピソードはありませんでした。
惜しくも入賞にはもれてしまいましたが、心が揺さぶられ、「明日も頑張ろう」と思えるような、そんなエピソードの一部を紹介します。

目次
【憧れの制服、大好きな制服エピソード】
 ・広がる制服の香り(10代 Sui)
 ・太陽に透かして(20代 桃谷葉月)
 ・美術館の絵のように(30代 栗原仁美)
 ・歌とおまじない(20代 染井よがり)
 ・「your uniform is nice.I like it.」(30代 やえ)
 ・見て!(30代 ひより)

【制服を通して感謝が伝わるエピソード】
 ・祖母に送る第二ボタン(30代 中島健太郎)
 ・喜怒哀楽を包んでくれた制服(20代 ゆうこ)
 ・「行きたくない・・・」(30代 もんぶらん)

【制服と家族の絆エピソード】
 ・いつか小さくなる詰襟(30代 くじら)
 ・洋品店の思い出(30代 山名真由子)
 ・ネクタイが結びなおした絆(40代 きらり)

【性の多様性と制服のエピソード】
 ・自分らしい制服(30代 きぽママ)
 ・君らしくいられる制服(20代 ニッカ)

【時代を越えた制服エピソード】
 ・遥かな友へ(80代 三宅隆吉)
 ・幸運の詰襟学生服(60代 保健委員)
 ・私の制服物語(70代 川上千穂子)

【制服が人と人をつなぐ、感動エピソード】
 ・あなたとともに。(20代 むーに)
 ・思いがしみ込んだ制服(30代 田中あおい)
 ・結ぶ(60代 栄直美)

【胸キュン、制服エピソード】
 ・憧れのその人(50代 富岡波緒)
 ・茶色い制服に華やぐ心(30代 かとう)
 ・制服が結んでくれた赤い糸(30代 チワワ)

憧れの制服、大好きな制服エピソード

【広がる制服の香り】(10代 Sui)

 3月の下旬。小学校の卒業式を終え、春休みに突入してすぐの時でした。無事に第一志望の中学に合格し、制服の到着を今か今かと待ち侘びていた時のことです。朝早く、こんこんとドアを叩く音がしました。開けてみると、配達員さんが大きな箱を抱えて玄関先に立っていました。
「お父さん、制服だよ!!」
すぐにボールペンを手に取って、慌てて受け取り確認をしました。嬉しさで、手が震えてなんだかおじいちゃんみたいな字になりました。慌てて階段を駆け上がって、急いで箱を開けました。袋から取り出すと、新品特有のそれの香りがして、大きく息を吸い込みました。卒業式では泣かなかったのに、制服を前にした途端、もう小学生じゃないんだと、なんだか泣きたくなりました。初めて着た制服は、ちょっとブカブカで、でもドキドキして、いつまでも着ていたくなりました。着るだけで、なんだか誇らしい気分になりました。
 今では、毎日着る制服だけれど、時々あの時の感覚を思い出します。そして、お気に入りの柔軟剤の香りを胸いっぱいに吸い込んで、袖を通します。これからも、よろしくね、私の制服。



【太陽に透かして】(20代 桃谷葉月)

 私が通っていた高校の制服は、近隣の高校と比べても地味な方だった。落ち着いた紺色のブレザーで、上下共に柄はなく、みんな少し物足りないなあと思いながらも毎日身に纏う。同じく紺色の控えめなリボンだけが、唯一可愛くてお気に入りだった。
 入学して数ヶ月たった日差しの強い日に、みんなで並んで下校していると、ひとりが、
「あ!」
と大きな声で叫んだ。何事かと思って近寄ると、スカートの端を少し持ち上げてじっと見つめている。
「このスカート、チェック柄だよ!」
まさかあ、とみんな各々のスカートの端を同じように少し持ち上げて見ると、確かに紺色に黒いチェックが浮かび上がる。屋内では色が同化して見えづらかったけれども、太陽に透かしてみると、私たちは無地だと思い込んで身に纏っていたスカートは、チェック柄だったのだ。大事件である。なんだか最初からチェック柄ですよと言われるよりも、自分たちで見つけたその柄に愛着が湧いた。
 朝早くに校門前にに来ないといけない挨拶当番も、制服のチェック柄が本領発揮できる機会だし、とみんな乗り気になり始めた。ぱっと見てわかる可愛さもいいけれど、太陽に透かしたときだけ出会える私たちだけのチェックは、確かに宝物だった。



【美術館の絵のように】(30代 栗原仁美)

 高校2年生のとき、修学旅行先のアメリカのニューヨークにあるメトロポリタン美術館で絵を眺めていたら、突然英語で話しかけられた。私の着ている制服について何か言っているようだった。白いシャツに赤いチェックのリボン、黒いセーター、紺のブレザーとスカート。電子辞書を指定カバンから取り出して、なんとか相手の言っていることを理解した。
「服を……買いたい?」
「あなたはコレが欲しいんですか?」
拙い英語で尋ねると、相手はイエスと言った。どこで売っているのかと聞かれ、当時はインターネットで買い物をする習慣もなかったから、ジャパンと答えた。相手は悲しげに礼を言って去っていった。
 日本で制服を身につけるのは当たり前のことだが、海外ではそうではないのだと、海外に行って初めて知った。現地の人にとって、自分の制服が、美術館の絵のように素敵で特別に見えたのだと思うと、なんだか嬉しかった。
 私は教師になり、制服を身にまとう生徒たちを見守る立場となった。私が着ていたものとは違う、胸元の大きな校章、紺のブレザー、白いシャツに大きな赤いリボン、濃いグレーのセーター、白いラインでチェックの入った紺のプリーツスカート。それを着ることができる期間はとても短く、中学を含めても3年ずつの6年間しかない。学生時代はスーツを着た大人たちに憧れたが、社会人になった今は、制服がとても眩しく映る。



【歌とおまじない】(20代 染井よがり)

「ブレザーの袖を2回握ると緊張しないんだって」
小学6年生の3月、そんなおまじないを知った。
 まだ空気がひんやりとする体育館で連日行われる卒業式の練習。特に時間をかけたのは6年生だけで歌う「巣立ちの歌」だった。5年間、毎年聞いていたあの歌。声変わりを迎え始めた男声がかっこよく、密かに憧れていた。しかし、練習は厳しいものだった。1フレーズ歌っては止められ、また歌っては止められ。好きだったはずの歌がだんだんと苦痛になってきていた。
 卒業式当日。渡り廊下に並ぶ。在校生の拍手が聞こえてくる。ぎゅっ、ぎゅっ。ブレザーの袖を2回握った。知らない偉そうな大人たちの長い話を我慢し、やっと卒業証書を受け取った。ここまでは練習通り。
 そして、いよいよ「巣立ちの歌」を歌う番が来た。練習と違った。練習と違い、格段に気持ちよく歌うことができたのだ。
その理由を考えてみたとき、思い当たるものが一つあった。それが制服だ。考えてみれば当然だが、これまでは私服で練習をしていた。初めて袖を通す制服。目の前にいる在校生たちの私服姿と自分たちを比較し、もう小学生ではないのだと気付かされる。慣れない格好だけれども、なんだか誇らしい。制服特有の緊張感によって、私たちの「巣立ちの歌」は完成した。
 春休みはあっという間に過ぎ、中学校の入学式を迎えた。吹奏楽部の演奏と先輩たちの拍手が聞こえる。体育館の前で私はブレザーの袖を2回握った。



【Your uniform is nice.I like it.】(30代 やえ)

 ちょうど2000年、私の通った中学は新しい制服が作られました。生徒からは可もなく不可もなくといった感じでしたが着ている人数が少ないので街なかでも
「あれどこの?」
と目立っていました。
制服はセーラー服に近いタイプでしたが重厚感があり、きちんとしたシルエットが日本人らしい印象でした。
 何年か経ち修学旅行として行くことになったのはオーストラリア。ホームステイをしながらいろいろなところに行きました。制服も持っていきましたが、まるでスーツのようでラフさに欠けるところが海外では恥ずかしくもありました。
スリーシスターズを見に行った日はたまたま制服で行動していました。お土産屋でぬいぐるみを見ていると何人かの奥様方にじろじろ見られ、またかと思っていると明るく
「Your uniform is nice.I like it!」
と言われ、英語のわからない私にもジェスチャー混じりの好意的な発言が胸に響きました。恥ずかしくて
「Thank you….」
としか言えませんでしたが、笑顔で返せて奥様方もニコニコしていたのを覚えています。



【見て!】(30代 ひより)

 一目惚れだった。目を奪われた、釘付けになった。胸元の紐の華奢なリボン、ウエストがきゅっと絞ってあり、長いプリーツスカート。制服に一目惚れだった。まるで、プリンセスがドレスを着ているのか。と思うほど、綺麗で美しくて、私は絶対この学校に通いたい。と思った。古くありながら大切にされている校舎と新しく綺麗な校舎が上手く融合されている空間に春夏秋冬でどの季節をとっても美しいデザインの制服。山手へ向かう道中の異人館の景色、山の近くを流れる川のせせらぎ。どれも美しくて、その景色の中に私も居る。と思うとあの頃は胸が高まった。
 入学式の日、早く着たくて朝早くから鏡の前で何度もあわした憧れだった制服。たくさんの感情を抱いた想い出がつまったもの、あのころって繊細で眩しくて楽しかったんだと思い出す。
 今しかない。今がある。振り返る幸せと共に、これからの我が子の未来への成長に胸が踊るのだ。

制服を通して感謝が伝わるエピソード

【祖母に送る第二ボタン】(30代 中島健太郎)

 中学1年生の時に母が癌で他界し、現在まで祖母が育ての親となってくれた。
 中学生は学生服だったが、高校に進学すると同時にブレザー制服となり、入学式で父にネクタイの結び方を教えてもらい、苦労したことが今でも記憶に残っている。元来、ずぼらな私は学校から帰宅後、制服をハンガーにかけずに脱ぎ散らかしていると、祖母から叱られたものだ。
「ジャケットは脱いだらハンガーにかける!ズボンは、端を揃えてラインに沿って畳まないと直ぐにシワになるよ!」
祖母は怒りながら、私が脱ぎ散らかした制服を丁寧にハンガーにかけてくれた。私は適当に聞き流していた。
 父子家庭や様々な不幸が立て続けに起こり、徐々に生活が困窮したが、祖母が身を粉にして働いてくれたおかげで、育ち盛りの私に沢山食べさせてくれた。そのおかげもあり、体重は徐々に増加し一年生の時に仕立てた制服は窮屈となった。自転車通学をしていた私は、どんくさくてよく転び、ズボンに穴をあけてしまったり、太ったせいもあって、背伸びしたらジャケットのボタンが両方とも取れてしまったこともあった。その度に、祖母がズボンの穴を補修してくれて、取れたボタンを取り付けてくれた。祖母は洋裁科出身であり、綺麗に修復してくれた。
 高校生の時から15年の月日が流れ、このコンテストを見つけ、高校時代を思い出した。毎日アルバイトに明け暮れていた私は、青春を謳歌したわけではない。だが、祖母から受けた愛情は今でも鮮明に覚えている。祖母から怒られた制服の畳み方は、スーツを着用するときに守っている。
 制服の第2ボタンは、思い人に渡すという風習があるが、本当の意味は「一番大切な人」という意味が込められている。
もし学生時代に戻れるのなら、何一つ文句を言わず育ててくれた祖母に送りたい。



【喜怒哀楽を包んでくれた制服】(20代 ゆうこ)

 「本当に制服が可愛いなんて理由で選んでいいのか?」
そう言って困り顔で笑いながらも、父は志望校の願書を書いてくれた。合格証書を見せたときは
「6年間、元気で楽しく通えよ。」
と嬉しそうに私の頭をぽんぽんした。
 数日後、些細な症状が気になり父が病院に行くと、「末期の膵臓がん、余命三ヶ月。」と宣告された。そして結局、その一か月後に父は他界した。生きている間に父に制服姿を見せることは叶わず、入学式の日は、私も母も上手に笑えなかった。
 父の四十九日で着慣れない制服に身を纏う私に、親戚は涙を浮かべながら
「おめでとう。」
と言ってくれた。こんな未来は想像してなかったな、と思い涙が滲んだ。
こんなに暗いスタートを切った私の学生生活だけど、幸い、賑やかすぎる友人に恵まれて明るい6年間を過ごすことができたた。
 吹奏楽部に入った私は朝は誰よりも早く学校に行き朝練をし、帰りは先生に怒られるまで友達と話し続けた。制服を着ていた時間は誰よりも長かったかもしれない。あんなにお気に入りだった制服も高校生になると「ダサい。」と思い、スカーフの色を変えてみたりもした。だけどやっぱり一番しっくりくるのは、ちょっとダサい水色だった。
勉強は思うようにいかず、赤点を取ることもしばしば。だけど母は、
「ここが一番大事なんだよ。」
と通知表の出席日数を指さし、毎年もらってくる皆勤賞を仏壇に飾ってくれた。
 卒業式を終え、制服をハンガーにかける。思い返すと、人生で一番泣いた瞬間も、怒った瞬間も、笑った瞬間も、私はこの紺色に包まれていた。県大会が決まって大喜びしたときの砂埃も、初めてのデートで緊張してこぼしたジュースも、父を思い出してふと出てくる涙も、全部染み込んでいるのだろう。
 空から見守ってくれていた父に、1番近くで支えてくれた母に、そして思い出がいっぱい詰めこまれた制服に、今なら笑顔で伝えられる。
「ありがとう、お疲れ様。」



【行きたくない・・・】(30代 もんぶらん)

 いつの頃だったか、私の足は学校から遠のいた。何か理由があったわけではない。行ったら友達もいて、先生もそこそこ良くしてくれた。家にいて何をするでもないのに、幼かった私は家にいることを選んでしまった。毎朝見る寂しそうな母の顔。後ろ髪引かれながらも私の昼食を用意して仕事に向かう母。学校に行けば給食があって、お昼の用意などいらないはずなのに。申し訳なくて。でも、どうすることもできなかった。お昼の用意をしつつ、制服の用意も欠かさなかった。私がいつでも学校に行けるように、衣替えの時期に合わせて、制服をクリーニングに出して部屋のクローゼットの中に吊ってくれていた。
 少しずつだが制服に袖を通すことが増え、それと共に学校での思い出も増えていった。でも、制服を着られる時間には限りがあり、増える思い出と反比例し、着られる時間は減っていった。過ぎた時間を取り戻すことはできない。残ったものは大きな後悔。
 そんな私が、今、中学校の教師をしている。同じ後悔を生まないために。なんておこがましいことは言えないけれど、毎日中学生に囲まれて充実した生活を送っている。学校ってこんなに楽しい場所なんだ。あの頃の後悔を取り戻すかのように、今、第二の青春を謳歌している。
 教師というの立場になり、何度経験しても胸が一杯になるのが入学式と卒業式。真新しい制服に身を包んだ出会いの春と、着古したボロボロの制服に袖を通す最後の日となる別れの春。どちらも期待や希望に満ち溢れた瞳が輝いている。それが私が心の栄養だ。私はここにとどまり、これからもたくさんの生徒と喜びや苦悩、楽しさや憤りに寄り添い、共に成長を続けていきたい。それが、毎朝、お昼ごはんと制服を用意してくれた母への恩返しにもなると信じて。

制服と家族の絆エピソード

【いつか小さくなる詰襟】(30代 くじら)

 初めて中学校の詰襟に袖を通したとき、自分のあまりの不格好さに唖然としたことを覚えている。小学校の6年間、背の高い順で並ばされるとき万年いちばん前だった私は、借りてきた猫のような顔つきで姿見に映った自分のだぼだぼの詰襟姿を見つめていた。第一印象は「とにかく似合わない。」その一言に尽きた。不格好という自覚が芽生えてしまったがゆえに、新学期が始まるのが嫌で仕方なかった。友達に笑われるかもしれない、そんな恐怖心さえあった。結局その思いを払拭できないまま入学式を迎え、不貞腐れるまま制服に袖を通す私を見守っていた母が突然、ぽつぽつと涙を流した。同時に
「ごめん、何か、大きくなったなと思って。」
と、一言だけつぶやいた。
「どこが?」
と、とっさにそっけない返事をしたけれど、母は
「何もない。」と笑って言葉を濁した。
思春期の真っただ中だった私には、母の言葉の意味が、本当に心の底からわからなかった。なぜいま泣く必要があるのか、からきし理解もできなかった─。
 あれから25年が経って、春から小学生になる私の息子が現在、真新しい詰襟に袖を通している。ボタンを自分でとめるのが難しいのか、何度も私の元へやってくる。制帽を被り、ランドセルを背負ったときの屈託のない笑顔を見ると、無性にあの日の母の姿が思い出されてくる。いま思えば、母はきっと私の成長が嬉しくもあり、同時にたまらなく寂しくもあったのだろう。喜ばしいけれど、これ以上大きくなってほしくない、そのままでいてほしい……。そんな複雑な思いが、たえず私の心の中にも同居している。
 あの日の母にもう一度だけでも会えるなら、気の利いた言葉の一つや二つ返せたかもしれない。だからせめて、母の姿に思いを馳せながら、少しずつ、いつか確実に小さくなっていく息子の詰襟の制服姿を目に焼き付けておこうと思う。



【洋品店の思い出】(30代 山名 真由子)

 赤と青の日よけ。西日が差す。「○○学校の制服あります」と書かれた張り紙。進学を祝う制服メーカーのポスター。平らな長方形の箱。箱の中には制服が入っている。それがたくさん積み上がっている。その前には祖母が座っていて、テレビを見ながら店番をしている。私が「制服」で思い出すのは、制服を販売していた祖母の洋品店の情景である。
新生活へのわくわくとどきどきが混じった時期。新一年生が親と一緒に祖母の店にやってきて、制服の採寸をする。普段祖母が店番で座っているところには、カーテンのような布が上から吊られており、そこに入って制服を試着する。
「中学生だと体が大きくなるから大きめで作っておこうか…。」
と相談する声が聞こえてくる。
私は店内から壁一枚を隔てた部屋でよく遊んでいた。両親が共働きのため、日中は祖母に面倒を見てもらっていたのだ。お客様が
「こんにちは。すみません。」
と言いながらお店にやってきて、祖母がいつもより少し高い声で
「いらっしゃい。」
と迎え、接客しているやりとりをよく聞いていた。
 自分が制服を作る歳になったとき、同級生が注文に来た。友達もたくさん来てくれたし、入学後に仲良くなった子が、祖母の店で制服を買ったよと教えてくれたこともあった。制服に袖を通した時の、同級生たちの少し嬉しそうな、照れくさいような顔。制服を着ると、みんな急に大人っぽくなるものだなぁと子供ながらに思った。学校で見る同級生たちが自分のテリトリーにいる不思議な感覚。初めて見た同級生にそっくりのお母さん。飲み物を取りに行くときには、構造上店の中を通らないと台所に行けないので、邪魔にならないように、少し緊張しながらお茶を飲みに行ったことを思い出す。
 今はもう、祖母の店はない。でも、あのとき感じた店の雰囲気、同級生の顔、祖母の声、ずっと忘れないだろう。生き生きと仕事をしていた祖母の姿は、今の私の、働くことへの原動力になっている。



【ネクタイが結びなおした絆】(40代 きらり)

 中学時代、反抗期だった10歳年下の弟。家族と話をするのは必要最小限。「おう。」「わかった。」「いらない。」など。それ以外の言葉を弟が発すると家族全員が驚いて彼を二度見したものだった。部活動の野球の練習で疲れていたのかもしれない。先輩に気を遣って家では無駄にエネルギーを使いたくなかったのかもしれない。とにかくあの頃の弟はこちらが近寄りがたいオーラのようなものを放っていた。
 そんな弟が高校受験に受かり、新しい制服をもらってきたときのこと。詰め襟の学生服からブレザーへ。鏡の前に立ち、ジャケットを羽織った弟。同じ人物なのにガラリと違って見えたことを今でも鮮明に覚えている。試着した後もなかなかジャケットを脱がず制服を着たままの弟。ついには夕食も制服姿のまま食べるではないか。脱いだら?と家族に言われてもいつものように
「おう。」
と一言つぶやくだけ。
そして夕食を終えて部屋にいると、ドアをノックされ、開けるとそこに弟が立っていた。やはり、制服姿で。何?と尋ねると手にくるくるとネクタイを巻きつけて
「これ。」
と言ってうつむいた。弟はネクタイを結ぶのが初めてだったのだ。「これ。」の一言だけで「結び方を教えて。」と素直に言わない弟に少々腹を立てながらも「先輩」である私は彼にそれを伝授した。
 入学式の日、照れながら階段をおり、リビングにやってきたときの照れた彼の顔を今でも忘れることができない。嬉しそうで恥ずかしそうで、ブレザー姿がよく似合っていた。
 あれから数十年が立ち、お互いに生活や人生ステージも変わり、悲しいかな、距離を感じることもあるけれど、きっとそれは自然なこと。あのときキツ目に結んだネクタイに私は、時は流れ状況は変われど、あんたは私の弟だよ、と言いたかったのかもしれない。甥っ子の七五三にの写真におさまる、最近見た弟のスーツ姿も、ネクタイの結び目は小さく、強く結んでいるように見えた。姉ちゃんにはそう見えた。

性の多様性と制服のエピソード

【自分らしい制服】(30代 きぽママ)

 雪がシンシンと降り積もる冬の朝、高校に向かおうとする私に母が言った。
「女の子は身体を冷やしたら良くないよ。制服にスラックスが出たみたいだから履いてみたら?」
お便りを片手に母が真剣な表情をしていた。
「スラックス?みんなスカートだし…。」
私はお便りをチラッと見て、玄関を出た。北海道の雪道は歩くのにもやっとで、スカートの下の素足は真っ赤になっている。学校に着く頃には足の感覚さえない。でも十七歳の私達にとって、短いスカートはオシャレそのもの。
 冬の寒さが一層、厳しさを増していった頃に母からある提案をされた。
「妹がスラックスを買いたいみたい。お姉ちゃんも買ってみない?」
それを聞いた瞬間、理由が何となく分かった気がした。同じ高校に通う一学年下の妹はその頃から男の子っぽい恰好を好んでいたのだ。私は薄々と気付いていた。きっと、男の子になりたいんだろうな、と。そうだとしたら可愛くて、短いスカートは妹にとって、ただの苦痛でしかないだろう。
「分かった。じゃあ試着してみるよ。」
 私はクラスで初めてであろうスラックスを履く決心をし、週末に妹と試着に向かった。
「なんか不思議な感覚…。社会人のスーツみたい。」
鏡に映る私はなぜか、背筋がピンとなっていた。ふと横を見ると一緒に試着していた妹は嬉しそうに微笑んでいる。
こうして、購入したスラックスを月曜日から妹と一緒に履いて登校することになった私。窓の外を見ると今日もシンシンと雪が降り積もっている。
「行ってきます。」「あれ?温かい。」
いつもは外に出ただけで肌に突き刺すような氷点下の痛みが感じられない。キシッキシッと雪を鳴らしながら横を歩く妹は今まで以上に生き生きしていて、一石二鳥で嬉しくなった。それからというもの私のクラスのスラックス人口はどんどん増えていった。
 これからの未来も制服による性別差に捉われない世の中になっていきますように。



【君らしくいられる制服】(20代 ニッカ)

 膝丈のスカート。第1ボタンまで閉めたブラウス。首元にしっかりとつけているリボン。どんなに暑くても彼女はベストを脱ぐことはなかった。
 あなたが私に打ち明けてくれた悩み。こちらの価値観で作られた制服がどれだけあなたを苦しめていたのだろう。スカートなんて履かなくていい。ブラウスなんて着なくてもいい。リボンなんかに縛らないでほしい。制服はもっと自由で、制服はもっと楽しいものだと思う。
それでも君は我慢して着てくれた。
いっそ制服をなくしてしまえば良いのでは?と考えた私に君は言ったね
「うちの制服は可愛いです!」
自分の着たい服とは全く違うものなのに、制服を否定しなかったことがとてもとても印象に残っています。はじめての担任。はじめて生徒に考えさせられた思い出深い出来事です。君が在学しているうちに、君が学校に来たくなるように、制服のあり方、個性について学校を巻き込んで考えました。一緒懸命考えた新しい制服。自分で選択できる制服に後輩たちはきっと救われています。
 今ではスカートを履いていない生徒もたくさんいます。ほんとは君に着て登校してほしかった。
 久々に会う、君のボーイッシュな姿になんだかとても安心しました。後輩たちのスラックスとスカートが混じった風景はどうでしたか?学校の象徴である制服が、思い出いっぱいの全員が楽しく着れるものであることを願います!

時代を越えた制服エピソード

【遥かな友へ】(80代 三宅 隆吉)

 昭和20(1945)年8月、日本は太平洋戦争に敗れた。日本だけで310万人が亡くなった。都市の大半が焦土と化した。国民の多くが焼け跡に立ち茫然としていた。腹がすけば人は何をするか分からない。その浅ましい現実を目の前に見た。
 中学2年(昭和27年)の春のことでしたね。あなたは窓辺に肘をついて、じっと夕日の沈みかけた名峰竜王山を眺めていました。
「どうしたの。」
たまたま忘れ物を取りに教室へ戻った私は大きな勇気を奮って声をかけた。にっこりと寂しそうにほほ笑んだあなたからの返事はなかった。男女が声をかわすことも少なかった時代でした。あなたは長身、雪のような白い肌、いつも優しい笑みをたたえていました。バスケットの選手でした。清楚ながら、おてんばな面ももっていましたね。遠くからその姿をあこがれの目で見ていました。野球をしていた私とは心の通い合うものがありました。お互いが声には出さなくても、それとなく意識していましたね。あなたは白襟のセーラー服が何とも言えず、似合い魅力的でした。
 担任の先生から、あなたが北海道の中学へ転校になると、知らされました。辛い知らせでした。あなたに会えるのが楽しみで学校へ通っていたのです。当日、あなたは静かに深く頭を下げ、校門を後にしました。霧の濃い朝でした。誰も知る人もいない地への転校は大きな覚悟が要ったでしょうね。
 あれから65年が経ちました。あなたが眺めた竜王山のみが昔と同じように静かに夕日に映えています。瞼閉じれば浮かぶ笑顔、何度か北海道に行きたいと思いました。今と違い北海道はあまりにも遠い地でした。幸せな人生を送りましたか。今でも別れた日のセーラー服姿がくっきりと目に浮かびます。



【幸運の詰襟学生服】(60代 保健委員)

 昭和50年に入学した高校の制服は、黒い詰襟の学生服でした。当時、大ヒットしていた「嗚呼!!花の応援団」の影響で、長ランとドカンが大流行でしたが、私は標準型のものを着用していました。なぜなら卒業後は、調査書も重視される理学療法士養成校を目指していたので、普段から真面目にしておく必要があったからです。しかし、進路指導の先生の見立ては「学力不足で現役合格は無理だろう。」でした。私も同じ意見でした。
 ところが、一次の学科試験に奇跡的に合格し、二次の面接試験に進めることになりました。早速、先生に報告すると
「奇跡って起こるんだな。」
と驚いて急遽面接の練習と指導をしてくれました。
そして、
「あとは見た目と熱意だからな。」
と念を押され、面接試験には必ず制服の詰襟学生服を着て臨むよう厳命されました。私は帰宅後すぐに制服をクリーニングに出しました。面接の前日は入念にブラシをかけ、上着は襟裏のカラーを新調し、ズボンはセンタープレスをキープしました。当日は先生の指導に従って、襟のホックを留め、背筋を伸ばし、脚を揃えて座り、拳は軽く握って太ももの上に置き、質問にはハキハキと元気な声で答えて無事に終了しました。
 一週間後に届いた合格の通知に、先生も喜んで一緒に万歳三唱までしてくれました。そして、入学式には必ず制服の詰襟学生服で出席するように指示されました。合格祝いにスーツを買ってもらうつもりだったので、理由を尋ねると
「せっかく詰襟で良い結果が出ているのだから、験を担ぎなさい。」
と諭され、仕方なくそうしました。
やはり入学式に詰襟学生服姿は私だけでした。しかし教員や来賓の人達に好評だったようで、入学後に好感を持って接してもらえました。先生の言うことを聞いて本当に良かったと思いました。
 このように制服の詰襟学生服は、進路指導の先生とともに私に幸運を運んでくれました。今でも深く感謝しています。



【私の制服物語】(70代 川上千穂子)

 今から3年前、孫娘が高校に入学した時、お祝いに制服を買わせてもらった。孫は入学前から自分の部屋に制服を飾り毎日眺めていたという。
 今年、彼女は大学に入学するのでお祝いにスーツを買ってあげようと思っていた。しかし孫は自分で買うと言ったそうだ。息子に聞くと
「小さい時からおばあちゃんに貰ったお年玉をずっと貯金してきたので、そのお金で買う。」
と言っているそうだ。成長したのだなあと寂しい反面うれしくもあった。
 そして自分が高校生の時を思い出した。私が中学生の時、我が家は経済的に苦しい状況にあった。昼の高校に行けず定時制高校を選択した。制服も鞄も靴も近所の2つ年上の女の子にもらったお下がりであった。商社に就職した私の同期の人は皆新しい制服を着ていた。紺色が日焼けして茶色くなった制服を着ていたのは私だけだった。
「ボーナスを貰ったら一番に制服を買おう。」そう思ってお茶くみの仕事を懸命に頑張った。冬のボーナスまでは長かった。やっと十二月の十日に初めてのボーナスを頂いた。次の日曜日一人で制服を買いに行った。
 一週間ほどして届いた制服を着て父と母に見せた。2人ともニコニコして頷いてくれた。次の日から新しい制服を着て通った。道を歩いていても電車に乗っても、誰もが私の制服を見ている気がした。うれしさと誇らしさで胸がはじけそうだった。定時制高校は昼間働きながらの4年間である。一緒に卒業しようと約束した親友は2年生で退学してしまった。私は制服に支えられた気がした。自分の力で買った制服、誇りのようなものがあった。その服に負けないように卒業まで頑張るぞと心の中で思っていた。
 無事に卒業式が終わって制服を脱いだ時、制服を抱いて初めて声をあげて泣いた。辛さや悔しさや葛藤や希望をずっと共有してどんな時も私を包んでくれた制服であった。孫の言葉は忘れていた昔のことを思い出させてくれた。孫よ、頑張れ。

制服が人と人をつなぐ、感動エピソード

【あなたとともに。】(20代 むーに)

 入学式隣の席だったことをきっかけに仲良くなった親友。毎日一緒に最寄駅まで歩いて通学、テスト勉強も、遊びもいつも、一緒だった。
 高3になった春、体調が良くないと、休みがちになった彼女。連絡しても、すぐ元気になるからと、いつも通り明るく振る舞う彼女に、私はすぐにまた一緒に、学校に通えるようになると思っていた。
 ある日、彼女のケータイを通じて、入院していると。連絡があった。私は、学校からの帰り道、彼女の元へ向かった。そこには、薬の副作用で顔はむくみ、今まで見たことのない彼女の姿に驚いた。なんで?どうして?と聞くと、彼女は、白血病と一言。私は、小学2年の頃、父親を同じ病気で亡くしている。もちろん彼女にも、その話はしていた。彼女は、私が父の病気の時のことを思い出すと辛いと話したことを、忘れずにいて、自分が同じ病気だと話すと、私が父のことを思い出してしまうと、自分の病気のことは言わずにいた。
 彼女は、心優しい。いつも相手のことばかり考えていた。面会時間終了まで、他愛もない話をして帰ろうと部屋を出ると、彼女のお母さんから、このまま行くと、今年持たない。いつもあなたの話ばかり、本当はとても会いたがっていた。来てくれてありがとう。と、その日から毎日、時間の許す限りに、病院へ通った。会える日も会えない日も。
 急激に悪化した7月24日彼女は、この世を去った。いつも通り面会した日の真夜中に。笑顔でまた明日、と言った、その日の晩に。信じられなかった。何もやる気が起きず、引きこもっていた。
 しばらくして彼女のお母さんに呼ばれ、お家に行った。そこで、彼女の制服のリボンと、手紙を渡された。手紙には、このリボンをつけて通学してほしい。いつも一緒。と、夏休み明け、毎日彼女のリボンをつけて通った。試験も受験もずっと一緒。卒業式ももちろん彼女と一緒に。姿はないけど、このリボンをしていると、いつも一緒にいる気がした。



【思いがしみ込んだ制服】(30代 田中あおい)

 息子が中学に上がる前。たまたま近所でフリーマーケットが開かれた。ベビー服や幼児サイズのズボン。その中に真新しい制服を見つけた。
「これ、そこの中学校のですよね。」
思わず声をかける。出店者の女性も微笑んで
「もしよかったら。」
とすすめる。5人の子を育てる私にとって制服代はバカにならない。もしここで制服代が浮いたらかなり助かる。いや、助かるなんてもんじゃない。
「ちょっと着てみますか。」
女性は奥の試着ブースを指した。息子が着替えている間、私たちは一言二言交わした。互いに子育て真っ只中。聞けば彼女の息子も同じ小学校の卒業生だった。だが私には一つ疑問があった。かかとのすり減ったベビーシューズ。首回りのヨレたTシャツ。なぜあの制服だけが新品なのか。
「すみません。気になったんですけどあの制服って……。」
すると彼女は遠くを見て、たったひと言。
「天国に行った息子のです。」
深いため息をついた。マズイと思った時には遅かった。どうやら息子さんは中学に入る直前に亡くなっていた。
「本当はこれを着て欲しかった。その思いは今も変わらない。でもいつまでも泣いてるわけにもいかないの。むしろ誰かがこれを着て、あの子の分まで生きてくれたらって。」
その声は決して暗く悲しい声じゃなかった。
やがて制服を試着した息子が現れると
「あら、似合うじゃない!」
と声をあげた。
「もうお代はいいわ。」
とも。
私は制服を貰えたことより彼女の思いにただただ涙が止まらなかった。
帰り際、制服は息子に手渡された。
「これを着て、いっぱい勉強して。いっぱい恋をして。いっぱい青春してね。」
彼女はまっすぐ息子を見た。そのまなざしはやさしくて、やわらかくて。まるでわが子に向けられているようだった。
 あれから10年。あの時の制服は今も手元にある。思い出も着れなかった人の想いも染み込んだ制服。その香りは甘く、ほろ苦く、でもやさしいにおいがした。



【結ぶ】(60代 栄直美)

 私には、どうしても通いたい高校があった。自宅から徒歩7分で行ける公立高校。女で一つで私を育ててくれている母の負担を軽くするにはこの高校に合格するしか無い。私の学力では随分とハードルが高かったが猛勉強の末、何とか合格通知を頂いた。この高校の制服、男子は普通の詰襟だが、女子はブレザーにネクタイ。なかなかお洒落。この制服に憧れ遠い所から通う女子も少なく無かった。
 さて、父親不在の我が家にとってネクタイは今迄無縁の存在だった。母は御近所さんからネクタイの結び方を習い私に伝授してくれた。思ったより簡単で私は余裕だった。入学式当日。緊張の為かネクタイが上手く結べない。母の姿も見当たら無い。時間だけが無情に過ぎる。私は半べそをかきながら隣家に飛び込んだ。以後、毎朝ネクタイと格闘する日が続いた。実はこの頃、ネクタイ以外にも私を悩ませていた事があった。未だ私には友人ができていない。ネクタイと友人問題は私の高校生活を憂鬱にさせていた。
 その日、初めての体育の授業があった。次の授業迄は僅か十分しか無い。手際よく着替えを済ませ次々と更衣室を後にする級友達。私は相変わらずネクタイに手こずっている。時間が無い。
「お願い、ネクタイ結んで。」
私は隣の女子に声をかけた。一度も話した事の無い私から声をかけられ一瞬戸惑った様子の彼女だったが直ぐに手際よくネクタイを結んでくれた。放課後、数人の女子が集まり私のためにネクタイを結ぶ特訓をしてくれた。ネクタイ結びの秘訣と友人ができた特別な日になった。
 月日が流れ、結婚した私は新婚時代、毎朝夫にネクタイを結んだ。2人の息子達が初出勤する日は少し弛んでいたネクタイをキュッと締め直し門出を祝った。ネクタイを目にすると、悪戦苦闘していた私の姿と優しい友人達との思い出が甦る。
現在もあの高校の制服は変わっていない。ネクタイ姿の女子に密かにエールを送る。

胸キュン、制服エピソード

【憧れのその人】(50代 富岡波緒)

 「はい、これ。もらってきたよ」
友人が差し出した掌には、小さなメモ用紙と学ランの袖のボタンが乗っていた。受け取った私はそっと胸に押しあてる。今日、卒業したその人の温もりを感じ取ろうとして。「制服」というワードで思い出すのは決まってこの情景だ。二学年先輩の卒業の日である。
 その人は、学校でも目立つ存在だった。生徒会長で、吹奏楽部の部長で、スポーツ万能で、成績優秀。中学校に入学して間もなくの私は、たちまち憧れてしまったのだった。普段、校内では体操服を着て過ごす。制服は登下校と式典の時にしか着ない。だから、制服姿の彼を目にした日は一日中幸せな気分に浸れた。立派な体格をしていた彼は体操服が似合う。けれど、制服の方が何倍もすてきに見えた。たったの二歳差がとてつもなく大きく感じられ、すっかり大人びて見えるのだった。制服マジック、恐るべしである。
 彼が卒業するまでの1年間、特に関わることはなかった。憧れの先輩として一方的に想いを寄せていただけだった。けれど卒業式の日の私は大胆だった。3年生の教室まで行って握手を求めたのだ。
「おめでとうございます。高校でも頑張ってください。」
彼は一瞬面くらったような顔をしたものの、すぐに笑顔で手を握り返してくれた。硬くて厚い手だった。私は、恥ずかしさのあまり付き添ってくれた友人を置き去りにして、逃げるようにその場を立ち去ってしまった。
 そして、冒頭のやり取りになる。友人が、私へのメッセージと制服のボタンをもらってきてくれたのだった。人気者の彼の制服のボタンはほとんど残っていなかったそうだ。メモには「Never give up!」と書かれていた。パワフルな先輩らしい言葉だと思った。
 もうそのメモもボタンも手元にはないが、目を閉じればいつでも記憶の引き出しから取り出せる。制服を着たその人の姿と共に。



【茶色い制服に華やぐ心】(30代 かとう)

 その人との出会いは、私が中学2年生の頃。毎朝通学途中に見かける高校生の女の人がいました。毎朝同じ時間に橋の手前で、友人が来るのを待っている人。美しい姿勢、綺麗に着られた制服、自分より少し短いスカート丈。そして、友達が来た瞬間の華やかな笑顔、友人と自転車に乗って楽しそうに去っていく後ろ姿。当時中学生だった私からすると、「高校生」というだけでも大人でお姉さんの様な気がして憧れてしまうものでしたが、中でもその人は特別でした。もっと見ていたいと毎朝思いました。
 その人を見ることが私の中での日課となり、時間が合わなかったのか、見られない日は、朝から悲しい気持ちにもなりました。その人が身に付けていたのは、茶色いスカートに茶色のストライプの蝶ネクタイ、紺のベスト。一体どこの高校の制服なのだろうと調べてみると、市内でも有名な進学校のものでした。あの制服を着たら、私もあの人の様になれるかもしれない。いつしか私はあの人と同じ制服を着て、あの人のいる高校に行きたいと強く思うようになりました。その高校は、自宅から自転車で坂を登り50分かけてやっと到着する場所にあり、両親からの強い反対もありました。しかし、その思いは決して揺らぐことはありませんでした。次の年に受験し、無事合格することができました。
 まだ少し肌寒かった春先、憧れた制服に袖を通した瞬間のことは16年経った今でも決して忘れることはありません。暖かい春の風が吹き始めた春、またあの人に会えるといいなと期待に胸を膨らませていましたが、入学してからはその人を見掛けることは一度もありませんでした。苗字も名前も何も知ることはありませんでしたが、私の中の青春の思い出として今でも忘れずに心の中にしまってあります。憧れたあの人と同じ制服に身を包み、友人と過ごした高校生活は、何にも代え難い最高の思い出で溢れる日々となりました。



【制服が結んでくれた赤い糸】(30代 チワワ)

 朝、パン屋さんでバイトをしてから高校に向かう毎日。バドミントン部にも所属しており週3回、朝練習がありました。ある日バイトの時間が長引き、部活に遅れそうになり、自転車を一生懸命に漕いで学校へ向かいました。その時!同じように一生懸命、自転車を漕いでいる学ランの人とぶつかりそうになり、自転車を停め、お互いに謝りました。その時は急いでいたので、連絡先など交換せず‥。
 しかし、その数ヶ月後、練習試合で行った学校で、自転車でぶつかりそうになった彼の制服と同じ生徒を見つけ、ここの学校だったのかー、と分かりました。彼も偶然バドミントン部だったので再会し、連絡先を交換し、それから10年付き合って、結婚に至りました。お互いに制服を覚えていて、制服が赤い糸になってくれました。


[記事公開日]2024.4.25